「日本のおっぱい」乳がんダイアリー

2011年乳がんになりました。

2年前の3月11日は。

2011年3月10日に二度目の抗がん剤治療を受けて、11日の金曜日は点滴の翌日なのでまだ副作用がやってこない日でした。三週間毎の木曜日の午後に点滴を打つと、だいたい3日後の日曜日の午後あたりから副作用がじわじわとやって来て、次の週一週間はほとんど起きれない、だるいというかカラダが動かない、食欲もない、眠れない、もちろん家事など論外、になるので、点滴後のその金曜日は動けるうちに、とせっせと掃除、洗濯や一週間出来ないことをすませてから、お昼ご飯を食べて、3時過ぎに犬の散歩を手伝ってくれることのなっていたお友だちのお嬢さんを待っていました。

そして午後2時47分。ものすごい揺れに、何があってもよいようにと、まずは犬二頭にリードをつけて、一緒に玄関から飛び出しました。いつも昼間行方不明の我が家の猫も、直前に何かを感ずいたのか、怯えたように玄関のすぐ外まで戻って来ていました。その割には、近所の人は誰も外に出て来なくて、拍子抜け。我が家の周辺は、落ち着いたものでした。

都内の実家に電話をすると、家の中で棚が落ちたりしたようでしたが、留守番の父は案外と冷静で、「ママが今池袋にいるんだよ。夕方には親戚のお通夜に行くんで待ち合わせしているんだ。」慌てて母と一緒に買物に出かけている妹の携帯に電話しましたが、通じません。メールを出したら、そちらには返事があって、池袋のデパートの避難所に母と一緒にいて無事、とのことでした。

約束通りやって来たドッグシッターと、「地震、すごかったわねえ。」と言いながら、のんきに副作用の前には運動を、と山まで一緒に散歩。帰ってからテレビをつけたら、「津波がきます」の連呼とどうやら交通機関が麻痺しているらしい報道。テレビを見ながら「高速道路は開いているみたいよ」という彼女の言葉(情報を見間違いたらしいのですが。)を鵜呑みにして、妹にメールで「池袋まで迎えに行こうか?」と聞いたら、「来てほしい」という返事が来ました。

父は父で、停電でテレビが見られないので「電車はすぐに復旧するだろう」と思い込み、お通夜の格好をして駅に行ったら全く電車が動いていないので、びっくりして引き返したそうです。

都内で仕事をしている夫に電話すると、「こんな時に、都内に車で来るなんて馬鹿げてるし、やってはいけないことだ」としかられましたが、妹は「道路はそんなに混んでないし、来てくれると助かるわ。デパートからは追い出されるし、駅は閉鎖されている。どの店も人が一杯で座るところもなくて困っている。」「近くのホテルを取ったら?」と言っても、「全部いっぱい。」

思い切って5時に車で都内に出発しました。まずはガソリンを満タンにしたことは、我ながら冷静だったと思います。でも当然ながら、高速道路は閉鎖中。幹線道路は進めば進む程渋滞がひどくなって、結局10キロか15キロ先の川越まで3時間かかり、それ以上行くことを断念しました。Uターンしたら、道はガラガラであっという間に自宅に戻ることができました。母たちは、幸い池袋駅近くのホテルで親切にしてもらってレストランの片隅の席に座らせてもらって真夜中過ぎの電車で自宅まで帰れたそうです。

夫はというと、早々と会社に泊まることを決めて、その日は会社のスタッフ全員プラス、スタッフの親戚まで避難して来て、皆で一夜をすごしたようでした。

池袋に迎えに行く途中からです。何だか大変なことが起こっている、ということが、少しずつ水かさが増していくように、じわじわと実感が湧いてきたのは。

初めて津波の映像を目にしたのが、いつだったのかは覚えていません。11日のうちに観たのか翌日だったのか。

一週間、テレビで繰り返される映像に釘付けになっていました。自分の身体の中にも津波のような副作用の感覚。そうしていても、感情的にはかえって落ち着いていたことを思い出します。「こんな状況で私ができることは、あるかしら?」とも「いえいえ、迷惑をかけないで、面倒をかけないで治療することが今出来る最善のことだろう。」とも。

二年前なのに、とても鮮明にあの日のことは思い出されます。

先週、打ち合せで泊めてもらった宮城県南三陸町の海の見える丘の上の仮設住宅では、猫がのんびりと日向ぼっこをしていました。